大樋焼 とは
大樋焼(おおひやき)とは、石川県金沢市に伝わる陶器である。茶の湯の道具として、加賀藩に保護され伝わった。
寛文6年(1666年)加賀藩の藩主前田綱紀が京都から茶堂茶具奉行として裏千家四世千宗室仙曳を招いた際に河内生まれの陶工 初代土師長左衛門が同道し、楽焼を伝えたのが始まりである。
仙曳が帰京する貞享3年(1686年)後も長左衛門は残り、河北郡大樋村(現在の金沢市大樋町)に居を構え窯をたてて藩の焼物御用を務め、地名から大樋姓を許された。
その後大樋家は代々藩の御用を務め、二代長左衛門(初代の長男)、三代勘兵衛(二代の次男)、四代勘兵衛(三代の三男)、五代勘兵衛(四代の長男)、六代朔太郎(五代の長男)、七代道忠(五代の四男)と、明治27年10月に没した大樋道忠まで初代大樋長左衛門の直系の子孫とその門人により藩主の御用窯として大樋焼の制作が続けられた。明治維新により藩の保護を失った七代大樋道忠は明治2年(1869年)製作を中断。明治17年(1884年)に再開するが、その子は、家業に従事せず他に転じたため、初代大樋長左衛門の直系の子孫による大樋焼の制作は七代大樋道忠を最後に途絶えた。
大樋焼の制作活動は、明治維新後藩の御庭焼から民間の窯元として生業を立てざるを得なくなったことや、当時の茶道の衰退と重なって、苦難の時期を迎えたが、その後門人達(及びその子孫)の制作活動の結果、現代において大樋焼は、飴色の釉の特色ある焼物として全国的に知られるようになっている。
歴史
寛文6年(1666年)加賀藩の藩主前田綱紀が京都から茶堂茶具奉行として裏千家四世千宗室仙曳を招いた際に河内生まれの陶工 初代土師長左衛門が同道し、楽焼を伝えたのが始まりである。
仙曳が帰京する貞享3年(1686年)後も長左衛門は残り、河北郡大樋村(現在の金沢市大樋町)に居を構え窯をたてて藩の焼物御用を務め、地名から大樋姓を許された。
その後大樋家は代々藩の御用を務め、二代長左衛門(初代の長男)、三代勘兵衛(二代の次男)、四代勘兵衛(三代の三男)、五代勘兵衛(四代の長男)、六代朔太郎(五代の長男)、七代道忠(五代の四男)と、明治27年10月に没した大樋道忠まで初代大樋長左衛門の直系の子孫とその門人により藩主の御用窯として大樋焼の制作が続けられた。明治維新により藩の保護を失った七代大樋道忠は明治2年(1869年)製作を中断。明治17年(1884年)に再開するが、その子は、家業に従事せず他に転じたため、初代大樋長左衛門の直系の子孫による大樋焼の制作は七代大樋道忠を最後に途絶えた。
大樋焼の制作活動は、明治維新後藩の御庭焼から民間の窯元として生業を立てざるを得なくなったことや、当時の茶道の衰退と重なって、苦難の時期を迎えたが、その後門人達(及びその子孫)の制作活動の結果、現代において大樋焼は、飴色の釉の特色ある焼物として全国的に知られるようになっている。